信心は孤独から始まる

 天地金乃神は、昔からある神である。途中からできた神ではない。天地は、はやることがない。はやることがなければ終わりもない。天地日月の心になることが大切である。信心はしなくてもおかげは授けてある。

 何億年もの長い間、じっと孤独に耐えてきた天地金乃神がこの世で初めて語った言葉であろうか。

 続けて神は言う。
 目には見えないが、神の中を分けて通っているようなものである。畑で仕事をしていようが、道を歩いていようが、天地金乃神の広前は世界中である。そして、神は声もなく、形も見えない。疑えば限りがない。恐れよ。疑いを去れ。神は、姿形は見えないが、天地と共に人々と共にいるのだ。どうか信じてくれ。

 風が吹いておるというても、風を見た者はあるまい。それでも、風がないと言う者はあるまいが。それは、空を見ると雲が駆けって動いておるし、草木はなびいて音を立てておるからわかるのじゃ。ご信心すれば、みんなおかげをもろうておるからには、神様がござるかござらぬかはわかろうが。
 
 姿の見えない神は悲しかった。神の心を伝え、おかげ授け助けてやりたくても私を知らない人間にどうして伝えられようか……。
 
 神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。
 
 神はこんな自分の心が分かる人間を待ち続けた。だが何時、現れるか分からない人間を待つ心はいかにも寂しく孤独であった。その孤独に耐え、自分を見つけてくれる人を何億年も待ち続けた。
 
 天地の間、孤独なのは神だけではなかった。この世の人間の悩み苦しみの声を聞き、自分を助け人を助け世界を助ける神の出現を祈り続ける人がいた。だが、どこにもそんな神を教えてくれる人はいなかった。教えてくれる所もなかった。その人は、見捨てられたような孤独の心をもって、ただ一心に神仏の加護を祈って神社仏閣を実意に丁寧に手を合わせて拝んで歩くことしか出来なかった。
 
 私養父親子、月なびに病死いたし、私子三人、年忌年には死に。牛が七月十六日より虫気、医師、鍼、服薬いたし、十八日死に。月日変わらず二年に牛死に。医師にかけ治療いたし、神々願い、祈念祈念におろかもなし。神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし。

 これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。
 
 ところが、姿も見えず言葉ももたない神が、残念至極と思い暮らしていたその人の孤独と絶望の祈りの中に立ち現れたのだ。
 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮寺社、氏子の家宅、みな金神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子、信心いたしておかげ受け。今般、天地乃神より生神金光大神差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたし候。

 神は孤独、人間も孤独、プラスとマイナスの孤独な電極が引き合うように響き合いお互いを求め合わずにいられない。孤独の中に神と人が出会う。人は教えを乞い神もまた人に神の言葉を伝え人を助けたい。ここから信心が始まる。金光教が始まる。だれの心にも孤独の闇がある。それが神との出会いの初めになるのだから孤独を大切にしたい。きっと有難い恵みをもたらしてくださる。広い世界が開けてくる。2025.01.01